原田美枝子さんといえば、昔から活躍している女優さんです。
そんな原田さんの生い立ちや学歴、母親の介護のことについてご紹介します。
原田美枝子の生い立ちについて
原田さんのご家族は、父、母、長男、次男の5人家族で、母親が住み込んで管理人を務めていたマンションで育ちました。
小学生の時にバレエの漫画に興味を持ち、そこからクラシックバレエを習い始めましたが、中学に入学するとバレエを続けることを諦めてしまいます。
ちょうどその頃、映画「小さな恋のメロディ」という作品に出会います。
この映画をみた原田さんはとても感動し、作品をみる側ではなく出演する側になってみたいと思うようになりました。
女優になるということはとても不安定なものですので普通ですと家族から反対を受けそうなものですが、母親からはやってみたら、と応援してくれたそうです。
芸能界へ入る道を探していたところ、中学2年生の時に新聞で映画「卒業旅行 Little Adventurer」の相手役オーディションが開催されることを知り、すぐに応募をしました。
オーディションは順調に決勝まで残ることができましたが、あと一歩のところで栄冠を逃してしまいます。
しかし、半年後にオーディションでの奮闘ぶりをみていた「サンミュージックプロダクション」から誘いがあり、芸能界へ入ることになります。
高校の時に映画「恋は緑の風の中」で主役としてデビューすると、1976年には「大地の子守唄」や「青春の殺人者」などに出演し、18歳の若さでブルーリボン新人賞やキネマ旬報主演女優賞など数多くの賞を受賞し、作品になくてはならない存在になっていきました。
原田美枝子の学歴について
原田さんは、豊島区立巣鴨小学校から西巣鴨中学校へ進学し、そこから高校は東京都立工芸高校へ進学しました。
この高校は1907年に創立された歴史のある学校で、多くのデザイナーやアートエンジニアなどになるための学習プログラムを組んでいます。原田さんは学業にも力を入れており、高校入学時はトップの成績だったそうです。
転機が訪れたのは高校1年生の時で、前に述べた映画「恋は緑の風の中」に出演したことです。
この中でヌードシーンが撮影され、大きな話題となりました。本人としてはスタッフたちが雰囲気を作ってくれるので、体当たりシーンではあったものの、特に気にすることはなかったようです。
しかし、周りからは変な目で見られるようになってしまいました。
女優という仕事をしっかりやっていきたいと思っていた原田さんは、芸能活動に理解のある高校に通いたいと思うようになり、高校1年生の3学期に都立代々木高校に転校することになりました。
この高校は、午前、午後、夜間の三部制の定時制課程のみを設置していて、芸能活動をしやすい環境がありました。
卒業生には中居正広さんや木村拓哉さん、女優ですと中谷美紀さんなどがいます。
作品に集中できたことが、新人賞などの受賞につながっていきました。芸能活動に集中するために大学には進学していません。
原田美枝子の母親の介護について
原田さんのお父さんは、晩年食道がんにかかり入退院を繰り返していましたが、本人の希望で自宅に戻りお母さんと過ごしましたが、2014年にお亡くなりになりました。
その後は、お母さんは一人暮らしをしていましたが、認知症の症状がひどくなってしまいます。
お父さんが亡くなって1年後に、脈拍が弱くなって病院に運ばれることがありました。数日は意識がはっきりしなかったものの、無事回復はしましたが、その時言った一言が「私ね、15の時から女優をやっているの」という言葉でした。
当然、女優をやっていたのは原田さん本人です。
この言葉を聞いた原田さんは、お母さん自身がもしかしたら女優をやりたかったのかもしれない、と気づかされます。だったらお母さんの夢を叶えてあげたい、と思うようになりました。
原田さんはすぐに行動に移し、お母さんが主演の24分にわたるドキュメンタリー映画「女優 原田ヒサ子」をつくり、2020年3月に公開されました。
仕事や育児に追われ、お母さんと関わる時間をなかなか持つことができませんでしたが、介護が必要となり、映画をつくったことがきっかけとなり、きちんとお母さんと向き合うことができるようになりました。
原田さんのお子さんもお母さんの介護に協力的で、とても感謝していたようです。
しかし、映画が公開されてから約1年後にお母さんはこの世を去ってしまいました。
介護というとどうしても後ろ向きなイメージを持ちがちですが、お母さんの「女優をやっているの」という一言がきっかけで、人生に目的を持って最後まで幸せに生きることができました。
双方にとって悔いなく終えることができて、きっとよかったのでしょう。
数々の大変な出来事がありながらも、人生を前向きに生きているのがよく分かります。