歌手の寺尾聰さんは実は父親、母親も芸能人という芸能一家の出身です。

更にお嫁さんも芸能人ということで、華麗なる芸能一家の出身だったんですね。

今回はそんな寺尾聰さんの家族について詳しくまとめました。

 

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寺尾聰のプロフィール

引用:https://www.zakzak.co.jp/ent/news/181104/ent1811049060-p1.html

 

本名:寺尾聰(てらお あきら)

生年月日:1947年5月18日

出身地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区

身長:176cm

血液型:A型

所属事務所:寺尾音楽事務所

 

 

歌手、俳優として活躍する寺尾聰さん。

 

 

最初は歌手として芸能界に足を踏み入れました。

1965年にカレッジ・フォーク・グループの「ザ・サベージ」を結成し、ベースギターを担当。

1966年7月1日にシングル「いつまでもいつまでも」でデビューを果たしましたが、2枚目のシングル「この手のひらに愛を」を発売した後にグループを脱退しています。

当時の寺尾聰さんは短気で気難しく、仲間と相いれなかったため、とも言われています。

 

 

1968年にはザホワイトキックスというグループに参加しますが、このバンドはシングル1枚を出した後に解散しており、寺尾聰さんは歌手としての活動を休業することに。

ここから俳優の道に入っていくのでした。

 

 

石原裕次郎製作、主演の映画「黒部の太陽」では実父の宇野重吉さんの息子を演じ、親子共演を果たします。

 

 

この突然の主役抜擢は父親のコネによるもので、当初寺尾聰さんは親の七光りと見られるのを嫌っていましたが、押し問答の末に出演することになった、という経緯があります。

 

「黒部の太陽」への出演をきっかけに、石原軍団の若手として「大都会」「大都会 PARTⅢ」「西部警察」など石原プロモーション製作のアクションドラマに次々と出演し、キャリアを重ねました。

 

寺尾聰さんの大ヒット曲である「ルビーの指環」は1981年2月5日に発売され、この年の第23回日本レコード大賞を受賞するほど大ヒットしました。

 

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寺尾聰の父親は俳優の宇野重吉

寺尾聰さんの父親は演劇界の重鎮である宇野重吉さんです。

 

 

福井県の農家出身で、上京して早稲田工手学校に入学し卒業。

日本大学芸術科在学中に通った築地小劇場でプロレタリア演劇に影響を受け、俳優になることを志すようになりました。

 

 

1932年、プロレタリア演劇研究所で出会った滝沢修らと劇団民藝を創設し、新劇の中心的指導者として日本の演劇界をリードしてきました。

その鬼気迫る演技からは考えられないほど、普段は気さくで朗らかな人だったそうです。

 

 

また俳優として活動する以外に映画監督としても作品を発表し、4本の映画が世に出ています。

寺尾聰さんは本名ですが、父親の宇野重吉さんは芸名で、日本の小説家である中野重治、鈴木三重吉の二人から文字を取ってこのような芸名をつけたとされています。

 

 

戦後の1951年に映画の製作を再開した日活が五社協定の締め出しにより俳優不足に苦しんだ際には、宇野重吉さん率いる民藝と日活を提携させ、自身をはじめ多くの劇団員を日活映画に出演させました。

 

 

※五社協定とは…当時の日本の映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が映画会社同士の専属監督、俳優らの引き抜きを禁じる協定。

真の目的は日活による俳優の引き抜きを封じるためであった。

 

 

これがきっかけで宇野重吉さんは日活のスター、石原裕次郎さんと固い友情を築き、寺尾聰さんが石原軍団に入るきっかけになったのです。

1968年の「黒部の太陽」では宇野重吉さんは寺尾聰さんと現実さながらに親子を演じました。

 

 

1988年1月9日に肺がんのため都内の病院で亡くなられました。

 

 

寺尾聰さんは自身の俳優としての礎は100%、父親の宇野重吉さんから教わったものだとインタビューで明かしていました。

俳優になって色んな先輩と話した時に「あ、もうこれ聞いてる、知ってる」と家の中で色々と父親から見聞きしたことを思いだし、家の中で見聞きしたことこそが自分の俳優の原点であると思ったのだそうです。

 

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寺尾聰の母親はダンサー

寺尾聰さんの母親は関志保子さんという女性で、昭和6年から26年にかけて東京新宿に存在した大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」に出演していたダンサーでした。

劇場に観覧に行った宇野重吉さんが志保子さんの舞台上の姿に一目惚れし、半ば駆け落ちのように結婚したそうです。

 

 

実は関志保子さんはムーランルージュ新宿座の出演者としてだけではなく、日本で初めて製作されたテレビドラマ「夕餉前」にも出演していた女優でもありました。

このドラマは、婚期の迫る兄と妹、そしてその母親の生活ぶりを描く12分間のホームドラマでした。

 

 

そんな中、関志保子さんは重吉さんと結婚したことで、芸能界からは引退。

のちに娘二人、息子一人の子どもたちに恵まれました。この息子というのが寺尾聰さんです。

 

 

関志保子さんは家庭に入ってからも上品な佇まいが目を引く人だったそうで、寺尾聰さんはお母さんがゆったりとお茶を淹れる時の「スーッスーッ」という情景からインスピレーションを得て、伸びる音と断ち切るような音の繰り返しが印象的な「出航」という曲を作ったというエピソードがあります。

 

寺尾聰の嫁は元女優!

寺尾聰さんは過去に2回結婚しています。

 

 

最初の妻は台湾人女優の范文雀(はん ぶんじゃく)さん。

1970年にバレードラマ「サインはV」でハーフのアタッカー、ジュン・サンダースを演じてブレイクし、人気絶頂だった1973年に寺尾聰さんと結婚し、芸能界を引退しました。

 

 

寺尾聰さんと范文雀さんの写真がこちらです。

 

引用:https://www.zakzak.co.jp/ent/news/181120/ent1811209286-p1.html

 

 

結婚式では石原裕次郎さん、まき子夫妻が仲人を務めましたが、一年で離婚してしまいました。

離婚会見ではそれぞれが離婚理由を語っており、寺尾聰さんは仕事ばかりで家にいなかったこと、范文雀さんは性格の不一致があったことを挙げていました。

 

 

そして、寺尾聰さんは1981年に女優の星野真弓(本名・まゆみ)さんと再婚します。

 

 

星野真弓さんは1979年に資生堂のCM「微笑の法則」のイメージガールとして登場し、数々のドラマにも出演。

 

 

80年代に放送された「池中玄太80キロ」というドラマでは、のちに舅となる宇野重吉さんとの共演も果たしています。

 

 

女優をしていた頃の真弓さん。↓

 

引用:https://minkara.carview.co.jp/userid/1569569/blog/41092020/

 

 

前途有望の若手女優でしたが、寺尾聰さんとの結婚、出産をきっかけに芸能界を引退しました。

 

 

2人の出会いのきっかけは寺尾聰さんが刑事を演じていた「西部警察」に星野真弓さんがゲスト出演したことでした。

激しいアクションがウリだったドラマで、出演していた人は強面の俳優ばかりの中、若い真弓さんは現場の空気になかなか馴染めずにいました。

そんな真弓さんを何かと気遣ってあげたのが寺尾聰さんでした。

 

 

二人が結婚を発表した時、聰さんは34歳、真弓さんは20歳で、この年の差婚は当時ワイドショーでもかなり話題になったそうです。

 

 

星野真弓さんが結婚を機に芸能界を引退し、すんなり家庭に入ったのは寺尾聰さんの「家庭に入ってほしい」という強い希望があったからと言われています。

自分の妻に家庭を守ってもらいたいというのは、寺尾聰さんにとって絶対に譲れない点でした。

真弓さんはそれをしっかりと実行したのです。

 

 

結婚後は、娘二人、息子一人の子宝に恵まれ、現在は6人の孫もいるそうです。

また星野真弓さんは現在、聰さんの所属する事務所の社長も務めています。

 

 

歌手として俳優としてマルチに活躍している寺尾聰さん。

今後はどんな役を演じてくれるのか?が楽しみですね。

 

 

寺尾聰さんが出演していた石原プロのドラマ「西部警察」や「大都会」はU-NEXTで視聴することができます。

若かりし頃の寺尾聰さんを見ることができますよ。

 

 

※本ページの情報は2020年8月時点のものです。

最新の配信状況は 公式サイトにてご確認ください。