寺尾聰の父親は?

実は寺尾聰さんの母も嫁も芸能界出身です。

寺尾聰さんの家族構成について詳しくまとめました。

 

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寺尾聰のプロフィール

引用:https://www.zakzak.co.jp/ent/news/181104/ent1811049060-p1.html

 

本名:寺尾聰(てらお あきら)

生年月日:1947年5月18日

出身地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区

身長:176cm

血液型:A型

所属事務所:寺尾音楽事務所

 

 

歌手、俳優として活躍する寺尾聰さん。

「ルビーの指輪」が有名ですが、最近では俳優活動の方が割合が多いですね。

 

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寺尾聰の父について

寺尾聰さんのお父さんは、演劇界の重鎮である宇野重吉さんです。

宇野さんは第二次大戦前から戦後にかけて、演劇界をけん引してきた名優です。

 

 

舞台を中心に活躍しましたが、映画やテレビドラマにも数多く出演し、その鬼気迫る演技からは考えられないほど、気さくで朗らかな人でした。

 

 

また自身、映画監督としても作品を発表し、4本の映画が世に出ています。

お父さんの方が芸名で、日本の小説家である中野重治、鈴木三重吉の二人からその名前を得たとされています。

 

 

戦後すぐに劇団民藝を立ち上げた創立者としても有名で、中心的指導者として、文学座・俳優座と並んで劇団民藝を、日本の代表的な新劇団に育て上げました。

昭和30年前後に、俳優は所属する会社以外の映画に出演してはいけないという五社協定で俳優不足にあえいでいた日活に、自分の劇団の俳優を供給し映画の製作に協力しました。

石原裕次郎さんとの関係は、この頃から始まり、裕次郎さんが亡くなるまで続きました。

1968年石原プロ制作の「黒部の太陽」に出演した際には、自分の息子である聰さんと、親子共演を果たしています。

 

その後、聰さんが石原プロモーションに所属しドラマに出演するようになったのも、重吉さんの力添えがあったからです。

しかし残念ながら1988年に、肺がんのため逝去。

父親と同じ俳優の道を歩み始めた聰さんは、お父さんの存在の大きさに圧倒され、また反抗心もあったため、演技の教えを乞うこともなかったとのことですが、重吉さんの死後「お父さんに似てきたね」と周りの人に言われることが、うれしく感じるようになったと言っています。

 

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寺尾聰の母について

 

寺尾聰さんのお母さんは、関志保子さんです。

昭和6年から26年にかけて東京新宿に存在した大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」に出演していたダンサーでした。

劇場に観覧に行った宇野重吉さんが、志保子さんの舞台上の姿に一目惚れし、半ば駆け落ちのように結婚したそうです。

 

 

実は志保子さんは、ムーランルージュ新宿座の出演者としてだけではなく、日本で初めて製作されたテレビドラマ「夕餉前」にも出演していた女優でもありました。

このドラマは、婚期の迫る兄と妹、そしてその母親の生活ぶりを描く、12分間のホームドラマでした。

当時のドラマ制作はノウハウもなく、過酷を極めました。

 

 

現場では照明の技術がなかったため、出演者に強烈な光を当て続け、顔に塗ったドーランが溶け、髪の毛が焦げるほどのものだったと言います。

 

また撮影資金が乏しく、脚本では晩ご飯に家族ですき焼きを囲み、おしゃべりをするとあったにもかかわらず、肉を用意することができなかったため、急遽「夕餉前」として食事のシーンをカットしてしまったそうです。

 

 

そんな中、重吉さんと結婚したことで、芸能界からは引退。

のちに聰さんを含む娘二人、息子一人の子どもたちに恵まれました。

家庭に入ってからも佇まいは上品な人で、お母さんがゆったりとお茶を淹れる光景を見て、聰さんは「出航」という曲を作りました。

 

 

優しくゆるやかに流れるようなそのメロディーは、お母さんが引退してもなお、女優としての振る舞いをしていたことの証かもしれません。

 

寺尾聰の嫁は元女優

寺尾聰さんの現在の妻は、星野真弓(本名・まゆみ)さんです。

聰さんは1973年に女優の故・范文雀さんと結婚しましたが、一年後に離婚。

真弓さんは二人目の妻です。

 

最初の奥さんとの2ショットがこちら。

 

引用:https://www.zakzak.co.jp/ent/news/181120/ent1811209286-p1.html

 

 

真弓さんは18歳からCMやテレビドラマで活躍したモデル・女優でした。

「青春諸君・夏」というドラマでデビュー。

その後「太陽にほえろ!」「学園危機一髪」など、数々のドラマに出演しました。

 

化粧品メーカー資生堂のキャンペーンガールとしての、「微笑の法則」のCM出演が有名です。

 

 

また80年代に放送された「池中玄太80キロ」というドラマでは、のちに舅となる宇野重吉さんとの共演も果たしています。

聰さんとの出会いは「西部警察」というドラマの共演でした。

 

 

女優をしていた頃の真弓さん。↓

 

引用:https://minkara.carview.co.jp/userid/1569569/blog/41092020/

 

聰さんはこのドラマで人気刑事役を演じていましたが、ある回で真弓さんがゲスト出演。

激しいアクションがウリだったドラマで、出演していた人はこわもての俳優ばかり。

 

 

若い真弓さんは現場の空気になかなか馴染めずにいました。

そんな真弓さんを何かと気遣ってあげたのが聰さんです。

 

二人が結婚を発表した時、聰さんは34歳、真弓さんは20歳でした。

この年の差婚は、当時ワイドショーでもかなり話題になりました。結婚を機に、真弓さんはすっぱりと芸能界を引退しました。

 

 

これは聰さんの「家庭に入ってほしい」という強い希望があったからと言われています。

聰さんの最初の結婚が失敗に終わったのは、その点での意見の食い違いだったためで、自分の妻に家庭を守ってもらいたいという部分は、聰さんにとって絶対に譲れない点でした。

真弓さんはそれをしっかりと実行したのです。

 

結婚後は、娘二人、息子一人の子宝に恵まれました。

現在は孫も6人いるそうです。また聰さんの所属する事務所の社長も務め、現在に至っています。